つばの黄色いスニーカー

一度も会ったこともないあの人は、実はとても身近な人かもしれない。自分の足元だけ見て生きている時、わたしもあの人を不幸にしている、犯人かもしれない。

南相馬の柳 美里さん

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先月、福島県南相馬市の小高に行ったとき、
作家の柳 美里さんの自宅兼本屋さん
フルハウス」に出会った。

そのときに購入した本が素晴らしくて、
おすすめしたいんだけど、

その前に

小高というまちと、わたしの関係について
お話ししたいと思う。

福島県には2014年の秋から定期的に訪れている。

今でも年に一度か二度は訪れているのは、
おそらく初めて小高へ行ったときのことが
忘れられないからだと思う。

4年も前とは思えないくらい、鮮明に覚えている。



******

あの頃の小高は、
警戒区域から居住制限区域になり、
わたしが来た頃はちょうど
帰還政策にむけて除染作業が
始まろうとしていた時だった。

瓦礫はほとんど撤去されていたけど、
3年放置された田畑は雑草が背高くのびていて、
住居の中や庭はホコリにまみれていた。
イノブタや空き巣に荒らされた家もあるという。

ショーウィンドウで中が見えるお店は、
地震で蛍光灯や内装がめちゃくちゃになっていた。

まちのどこもかしこも、人の気配は全くなく、
すれ違う車はどれも作業中のトラックばかり。
歩行者なんていなかった。

除染後の廃棄物を入れる黒い袋(フレコンバック)も
ほとんど見当たらない時だった。

昼間なのに、暗くどんよりしているように感じて、
放射能健康被害などに全くの無知だった
わたしだったが、それらの町並みを見るだけで
絶望しか感じなかった。

帰還にむけて、住居の片付けの手伝いをする
ボランティアとして、鹿島区の社協から
小高の住宅へ車で移動した。

はじめて訪問したお宅での話。

そのお宅は、たしか高台にあった。
敷地のすぐ横を見れば、海だったと思う。
「このお宅は津波の被害はなかったんだな」
と思って海を眺めていると、
視界の左側に衝撃的な光景が飛び込んできた。

水門のような橋のような、
とにかく大きな石質の塊が、
真っぷたつに崩れ落ちていた。

もしかしたら川だったのか?
でも、その時の光景があまりに衝撃的すぎて
じっと見つめることができなかった。
他のボランティアの人たちと同じように
写真を撮ることもできなかった。

お昼休憩には、その日はじめて出会った
ボランティアのおっちゃん達と昼食をとった。

「ここに帰りたいと思う人はほとんど高齢者」

「若い人は避難先で新しい生活が始まってるし」

「こんな状況で本当に住めるようになるのかね」

「こんなときにオリンピックなんてできる余裕あるのかな・・・」

そこではじめて、このまちの現実を知った。

「なんていうか、暗いんだよね、まち全体がさ」

いかついおっちゃんがこぼした一言と、
道中の光景が重なり、その場の全員がうなずいた。

関西で生きてきた自分は
いかに何も知らないで過ごしていたのか
近隣の原発の存在を意識したことがなかったこと
東京オリンピックと福島の復興政策について
何も感じたことがなかったということ

あの時のわたしは本当に何も知らなかった。

そして15時になり、作業は終わる。

作業に入る前と後は、
家主さんからの挨拶があるのが多い。

その日の終わりの挨拶の言葉が忘れられない。

「みなさんがこんなに綺麗に片付けてくれたおかげで、ここで生きる希望が湧いてきました。」

そう話す家主さんの目は、本当に輝いていた。
お世辞なしで、心から自然に出てきた言葉だった。

それから、
「若い人がいないなら、住んだらいいんだ」
とわたしは思い、
何年後かには移住するつもりでいた。

結局、なかなか実現できない状態だが、
移住をしようと思ったあの時のわたしは
もしかしたら「責任」を感じたのかもしれない。

あの状況下で、帰還の希望を見いだしたのは
本当にあの人のためになったんだろうか。

あのお宅でわずか数時間だけ
手伝いをしたわたしは、

こんなにも希望を感じられない地で、

あの人のこれからの一生に
無責任にも希望を与えたのではないだろうか。

忘れ去られたような、あのまちに、
帰ってくる希望を与えた「責任」。


******



あのまちは、今どうなっているのだろう。
昨年、居住制限区域が解除されたのだが、
解除されてたからは
まだ小高には行っていなかったので
ずっと気になっていた。

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そして先月、ようやく訪れた小高。

お店を再開した人、
少し前から戻ってきた人、
新しいことを始めている人たちにも出会った。

水色ののれんがかかってる時計屋さんがあって、
とくに時計を買うわけでもないけど入ってみた。
少し話しをしただけで
すぐに椅子に座らせてくれて、
お茶とお菓子までいただいた。

もとの人口の1割か2割くらいしか
帰ってきていないため、
やはりまだ寂しい町並み。

しかし不思議なことに、
おしゃべりを少しするだけで
こんなにも心温まるんだなとしみじみ思った。

その時計屋さんのご夫婦が、

「つい最近、柳 美里さんの本屋さんができたよ」

と教えてくれた。

道も手厚く教えてくださって、
その本屋さんをつくった経緯まで教えてくれた。

福島県の避難区域になった地域では、
友人や家族、ご近所さん、多くの人たちが、
福島県内のみならず、日本全国に避難した。

そして避難が解除になったとき、
帰還を望み、もしくは
帰還するしか手段がなかった人も含め、
生活の寝床を小高に戻したとしても、
生活の拠点をどこかに残しながら
帰還した人たちも多い。

仕事が別の地域で、遠くから通っている人。
住宅だけでなく学校も仮設校舎になり、
他のまちの学校へ通っている学生。
避難したあとに高校に入学したために
帰還してからは遠くから通わないといけない学生。

そして、その時計屋さんによると、
小高駅を利用する学生たちが
電車の乗り換えのために駅で待つ時間、
ここで過ごしてくれれば
という思いでつくられたという。

田舎では珍しい、
夜21時まで営業する本屋さんである。

フルハウス

というシンプルな看板。
色んな作家さんのコーナーがあって、
各々が推薦した本が並んでいた。

誰かが「大切な人にもらったもの」を
宝物のようにあるべきところに
置かれているような。

本屋さんというより、
誰かの部屋にいるような気分になった。
温かくて、ずっとそこにいたいと思える空間。
(人が多くて店内は写真が撮れず。)

その空間にいたら、
シンプルに柳 美里さんのことを知りたくなって、
本を購入してみることにした。
なるべくエッセイに近いものを選んだ。

その本は「国家への道順」というもので、
日本国家についての話というよりかは、
在日韓国人である自分の半生と
日本社会を照らし合わせながら
いろんなことを話してくれた。

感想は、また後日書くつもりだが、

フルハウスをつくった思いを感じられる言葉が
本の中にあった。

柳 美里さんは、
今でも差別を感じることが多いが、
子どもの頃は本当にひどいイジメにあっていた。
それはもう、壮絶な。

すべての時間が試練のような現実に耐えるため、
物語を読み、物語を書くようになったという。

その時間が唯一、
現実を忘れさせてくれる時間で、
自分を「ユートピア(どこにもない場所)」へと
連れていってくれる、救いであったと。

この本を読んだ今、
学生が夜遅くまで駅にいるのが危ないから
という理由だけではない、と思った。

東京電力原発事故によって
住むところを失った人、
仕事を失った人、
今までの生活ができなくなった人がたくさんいる。

しかし、それ以前に
福島県のみならず東日本の多くの人たちが
離ればなれになり、分断されたということにより

それまで大事にしていた
人と人の「つながり」は
複雑にからみあい
お互いの意見が対立し

もうわかりあえなくなった友人
我が子の健康を心配する気持ちを
打ち明かすことができない親
離婚をするしかなくなった夫婦

避難生活中に自殺をする人もいた。

それでも、
この地にいるからには「頑張ろう」
と明るく振る舞ってくれているように見える。

しかし
暗く重い、大きな大きな試練のような現実が
いつでもどこでも目の前にある。

目には見えないものが、ふとした瞬間に現れて
その度に、自分の胸に影を落とされるような。

このフルハウスは、
どんなに試練のような現実ばかりだとしても、
どこにもない場所へ連れていってくれる
救いの時間が、あなたにもあるんだよ、
と言ってくれているような気がした。


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また訪れたときは、
柳 美里さんとたくさんお話ししたいなぁ。